劇場タウンSHIBUYA
by 榎本了壱
1968年の暮れ、渋谷並木橋に出来る天井棧敷館の工事現場に行った。武蔵美の先生であった粟津潔が、寺山修司から地下劇場と一階の喫茶店、ファサードのデザインを頼まれて、学生3、4人に声をかけ、作業を手伝わせたのだ。その学生のうちの1人が私だった。
工事は3か月ほどかかり、その間に寺山さんから萩原朔美を紹介される。目つきの鋭い繊細な美少年だった。彼は渋谷天井棧敷館の柿落とし公演『時代はサーカスの象に乗って』の演出を任されていた。同い年だったので、すぐに親しくなり、渋谷の街でよく飲むようになった。
1974年夏、パリから帰って1年ぶりに再会すると、萩原はアートの雑誌の刊行を模索していた。当時出版事業に手を染めだしていたPARCOにプレゼンテーションした。その企画は受け入れられなかったが、渋谷のタウン誌を作らないかという逆指名を受け、もう一度企画を立てなおして出したのが「月刊ビックリハウス」となる。しばらくしてPARCOパート1に小さな編集室をもらった。
区役所通り(現・渋谷公園通り)にポツンと奮闘していた小劇場ジァンジァンを援護するように、PARCO最上階に西武劇場(現・PARCO劇場)が出来た。“劇場タウンSHIBUYA”の始まりである。1973年に土方巽の『静かな家』が上演され、1975年に「dance today ’75」が開催された。ニューヨークのポストモダン・ダンスの初上陸である。出演はトリシャ・ブラウン、シモーヌ・フォルティ、厚木凡人、ティヴィッド・ゴードン、花柳寿々紫、グランド・ユニオン。企画は市川雅と、厚木凡人だった。この時、私の心の中でモダンダンスが終わった。1984年、ヤン・ファーブルの『劇的狂気の力』がやってきて、ヌーベルダンスが怒涛のように日本に押し寄せる。私はヤン・ファーブルをNHKのスタジオでインタビューした。1986年、土方巽が亡くなり、勅使川原三郎がバニョレ国際振付賞を受賞する。日本のコンテンポラリー・ダンスの幕開けとなる。渋谷PARCOは今秋建て変わり、新たなPARCO文化を創生していくのだろう。