あの頃の築地に思いを残して
by 高野ひろし
90年代始めから、僕は相棒・銀の輔を連れて、東京の右半分ばかりを撮り歩くようになった。その頃の築地の日曜日は、明日に備えて準備するプロの方々と、僕みたいな物好きと猫くらいしか見掛けない、静かな世界だった。子供の頃から馴染んだ銀座とは目と鼻の先なのに、築地川を越えると、どこか懐かしく、現役バリバリな建物が並ぶ街があったんだと、感動すら覚えた。
恐る恐る入った場内、がらんどうの巨大建物、美しいカーブを描く高い天井からは、午後の日差しが差し込み、軒を連ねる仲卸の水槽から、ブクブクと空気を送り込む音が響いていた。木箱を積んだ台車、町中では見掛けない屈強な自転車、発泡スチロールの山、笑いながら「何やってんの?」って話しかけるお兄さん。ふと脇通路を見ると、桟橋の向こうには、まだ隅田川なのか、もう東京湾か分からない水辺風景が広がっている。
晴海通りの向こう側、本願寺の裏っ手あたりも市場の延長と知ったのは、もう少しあと。緑青の生えた看板建築や年季の入った羽目板の木造家屋が点在し、ホーロー製の「小田原町」という町名板を見つけた時の喜び!旅館や銭湯もあって、ちゃんと暮らしがある街なんだなと再確認した。
敬愛する伊東忠太の傑作・築地本願寺の本堂内には、動物のオブジェがたくさんあり、広い境内の石碑を見て歩くだけでも楽しかった。この境内で、友人とフリーマーケットに参加したことがあったけど、今でもやっているんだろうか?バンドで使ってたPA装置一式を、お坊さんが買ってくれた時は、やたら嬉しかった。
江戸の昔、魚は日本橋、野菜は神田と相場が決まった。威勢のいい江戸っ子の代名詞みたいな人々が闊歩し、街の胃袋を支えてた。
関東大震災がなかったら、今もそこにあっただろうか?やっぱり築地が選ばれただろうか?
大都会の真ん中に市場がある楽しさの一方で、ほぼ昭和以降の歴史しかない築地市場にも、江戸の昔のDNAが染み付いてるような気がしたのは何故だろう?
街は時代と共に変わっていく。そのスピードが早いのは東京の宿命。僕の中の築地は、加速度的に昔話になっていく。もう同じ風景には二度と出会えない。でも僕の頭の中には、今もあの築地がいる。
(2020年3月17日 ※築地公演、1年延期のため)